水無月といい、雨の日が多い季節になりました。
水がない月なのに、どうして梅雨と重なるのか?
日本にはそういう常識が山ほど存在します。
なぜか
それは、私たちの身近にある神社とリンクしているからだそうです。
神社はそれを祀る神が、自然の恵みとリンクしています。
春は五月(さつき)、この場合の「サ」は神の霊を意味するので、山の方から神の霊がやってきて田んぼや畑にエネルギーを注いでいくから野菜やコメが秋に実のだと信じられてきました。そして冬にはまた山へ帰っていく、というサイクルをお祀りしているのが神が来たとき困らないように建てた「神社」と「神棚」です。
日本は常に自然の都合が最優先でした。
今の時代のように一人一人の都合で動くということは、自然に反するのだという想いから日本語は生まれています。
では日本語を使うときに言霊に秘められた力、エネルギーを意識してみましょう。なにかわかるかもしれません。
冒頭にも書きましたが、梅雨なのになぜ水無月なのか?
これは日本がジメジメした季節を警戒していたからだといえます。
ふつう、植物は土から生えています。
土は日照りで乾燥するので、水やりをします。
植物は光合成をし、光合成によって生育します。
なので植物にとって水はなくてはならない要素です。
しかし簡単に育てられる反面、実は植物は水のやりすぎを最も嫌います。
水浸しになった根はふやけて腐食します。この時、土の中の細菌は爆発的に増えています。
これを放っておけば、神の霊のエネルギーの入った土は食物に細菌という名の疫病をもたらします。カビ、雑菌の爆発的流行です。
これがつまり、梅雨の時期の悪のエネルギー(ケガレ)といえます。
人々は山からやってきた神の霊をうまく管理できずにいました。
春にしっかり地に足をつけて根を張った植物だとしても、梅雨の雨でどんどん流れ出ていく土で足場がなくなり、おまけに腐ってしまって夏を超えられずに死滅してしまいます。
そこで水無月の登場です。
もともとは雨の多い月、という意味で「水月」だったと考えられていますが、あまりにも疫病とか不作とか悪のエネルギーが強いのが6月でした。
古事記にもあります。
太陽であるアマテラスオオミカミが天岩戸に隠れて出てこなくなった逸話が、この時期といわれています。
知恵を絞り、ストリップ劇場を開催して、最後には出てきてくれました。
強力な悪を浄化するにはそこまでする必要があった、という比喩も含めての話だとおもいます。
のちの人々は、やっぱり大変な目にあったので二度とアマテラスに天岩戸には入らないでほしいと悟ったのでしょう。
そして神々は、言霊に想いを込めて、6月を水のない月にして欲しいとの想いで水無月と変更して語り継いでいきました。
それで梅雨は長く続かない。どうやら毎年、7月下旬には梅雨が明けるようです。
本当は夏の日照りが干ばつを引き起こして、地球が砂漠化しているのだという意見が世界では主流になっているようですが、日本の場合そういう発想はなくてあくまで梅雨が最強のケガレなので、長くならないようにという想いで日本人は暮らしています。
夏も確かに猛暑日があって干からびる植物もありますが、それは太陽の気まぐれが地球に二酸化炭素を増やしたり減らしたりさせているだけなので、異常気象と地球温暖化についてはほとんど関係がありません。
太陽は気まぐれです。
エルニーニョ現象がある都市を壊滅させていますが、毎年ではないというのが特徴です。なので人工衛星をいくら飛ばしても予測なんてできません。
人工衛星といえば先日、平日の朝から夜まで一日中どこかUFOに形の似たバルーンが宮城県に飛んでいたというのがありました。
飛行機より上、つまり高度が高いという時点で、地球のものだと思います。見えない飛行機の軌道があるので、それを避けて設計された、地球生まれのバルーン。
そういう設計じゃない場合、気流に巻き込まれて大気を超えるまでには消滅してオジャンです。せっかく作ったのだから、壊れないように飛ばそうという(プロペラ、ソーラーパネルがまさに)風に作っているというのが地球人的です。
さて、脱線しましたが
今回は、言霊についてのコラムとなりました。
みなさんの身近な神社では、今もエネルギーを目に見える形でお祀りしているでしょうか。
お守りや、御朱印、祭事、禰宜のいるところないところ、手水舎などをよく見かけます。
神社は祭事を定期的に行っていますが、梅雨の時期は
夏越の祓の神事では茅の輪潜りを行います。
茅(カヤ)で出来た輪を潜ることで、ケガレを落とすという意味があるとされます。
水木しげるさんが発案した妖怪、アマビエのような海の人魚ももしかすると参拝者の中に紛れているかもしれません。
今回はこの辺で
ありがとうございました。
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