平均台と大人について

7月は6日が満月です。

夕方には水瓶座に移るので、満月域は解消します。

 

昨夜は雲間から満月を確認できました。

昼にたまった雨が排水溝を通り、どうやら梅雨らしい雨音が夜になると、水はトタン屋根に落ちる楽器となってリズミカルに三拍子を刻んでいるのを聞いて、脳裏に響いた夢枕にはチンドン屋が出てきそうでした。

 

 

 

さて今回のブログのテーマは小さい大人について。

 

小さい大人という、一見矛盾している単語が重なっています。

 

小さい、という形容詞が大人という名詞にかかることで、大人のイメージが一気に小さくなります。

 

小さいおじさんでしょうか。

 

 

小さい、という形容詞がいいたいのはこの場合、姿や大きさを表す小さいではないかもしれません。

 

 

流行りの言葉で、ADHDというアダルトチルドレンをいうのかもしれません。

 

 

でも、この小さい大人というテーマについて掘り下げていくので正解は違うのかもしれません。

 

 

読んでいって、これは違うなという内容も盛り沢山です。

それでは今回も変態ブログを書いて参ります。

 

精読いただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

まずは、わかりやすく3つに分けてみます。

 

 

 

1.小さい大人が増えているのか、大きい子供が増えているのか

 

2.少子化の本当の理由

 

3.誰が未成年を見ているのか

 

 

 

 

1ですが、高齢化社会の現代では、幼稚化が比例するようにすすんでいるといわれています。

 

昔は60歳くらいが平均して肉体的精神的ピークだったので、60歳で定年ということが常識でした。

 

わしはまだまだ現役じゃ、みたいに奮起するお年寄りに対しては、周囲がひきとめていたので大きな事故や、損失といったものはほぼなかったといわれています。また、老々介護なども常識でした。

 

 

しかし現代では、人口に対する高齢者の割合が爆発的に増え、高齢者の層が幅広くなりました。

 

後期高齢者、要介護、などなど一概に高齢者をランク付けできるようにして病院が社会構造と連携しています。それだけ能率があがれば、当然接し方は単純化するので老人ホームや精神病棟などでも職員の態度やマナーといった基本的なものが問題視されています。

 

その例で相模原の殺傷事件などは身障者施設ですが、職員による弱者を狙ったあまりにも悲惨な事件がありました。

 

 

加害者は求刑通り控訴しないことが決まり、日本の死刑制度はこういった事件を生むようになってしまう結果になりました。

 

それを見て今後、高齢化社会の中枢を生きる若い世代はどうなってしまうんでしょうか。

 

このような話も法律と、モラルとの相性が問題でしょうから

法改正の日は近いかもしれません。

 

 

 

2に参ります。

 

 

 

それにしても日本は、五体満足に生きているのに平均台から落下してしまっただけで自殺する人が多すぎます。年間3万人位いるとか。

 

こういう心の時代で、心の水不足を引き起こすというのは一体何なんでしょうか。

 

 

平均台という言葉を使いましたが、理由をあえていえば自殺された方がたが外れたのはレールではないということです。

 

あくまでも、平均台の上を歩いている人が何らかの形で平均台と気づかないでそのまま行って突然降りて(あるいはおろされて)自殺してしまいます。

 

 

自殺するほど悩んでいる人、とうのは何かによって人生をめちゃくちゃにされた、ぶち壊されて自分は被害者だから、許せない。ということだけが興味でしかない。自分本位の人々の特徴でした。

 

 

カトリックは自殺を禁止しているので、世界諸外国での自殺率は圧倒的に低いままです。もちろん、年中温かい国においてはストレスフリーな環境もあるとは思いますが。

 

 

もし平均台に乗っている学生とか、社会人とかの中にあなたや周りの人ががいるとして、自殺するほど悩んでいるならどうでしょうか。

 

 

平均台と気づかずに乗って、降ろされたと誰かのせいにできるほど、あなたは特別な存在でしょうか。

 

 

無料ですので、一回そういうときは問いかけてみましょう。

 

 

 

もし、大切なお金で自販機のようにコインを入れるからコーヒーが出てくる、とか

 

入ったお店でオーダーしたからランチが出てくる、とか

 

努力して汗かいたから、スキルが付いてくる、とか

 

暇を惜しんでスキルを磨いたから受験に受かる、とか

 

女を磨いたからすべての男はイチコロだ、とか

 

 

 

 

何かそれって、都合よくないですか?

 

 

 

自分の都合のいいことを並べて、みんなの平均台に乗っておいてどうしてみんなのものが単純に手に入ると思えるんでしょうか。

 

 

 

例えばこういう話をします。

 

 

 

ボランティアして人助けしていると思っている人がいたとします。

されている方は、プライドもあるでしょうし気まぐれだから助けられたいなんて思っていないとします。

 

双方の関係に亀裂が走るとします。

 

あなたはボランティアしている人がどうやら実は報酬を求めていたのだとわかります。

 

これだけ努力したんだから、自分には報酬があって当たり前だという感覚を疑わない人にも見えます。充実感や達成感とかもその一つです。

 

 

そういった人は恐らく、どこにでもいますよね。

 

 

 

でも

 

 

 

単純なギブアンドテイクがあるほど、この世は単純な世界ではないのだとわかることも一つの試練だと思える人は今やわずかな地球人です。

 

 

地球は平均台の下にしかありません。

 

 

生まれる前から教育を受けて、運命論に逆らえないとか、努力は裏切らないとか・・・

無意識に乗っている平均台の上で、何を上からものを言ってるんでしょうか。

 

 

 

 

 

これをしたらそれをもらえるというシステム。

平均台の下に見える地球から見たら、なんか幼稚な理屈じゃありませんか。

 

 

そもそも乗っているものが平均台なのに気づいてない場合が多いです。

車に乗っているとか、そういうローンで組み立てたものに乗っている人たちは、果たして上手な資産家でしょうか?

 

 

ローンは負債に仕分けでしょうか?資産でしょうか?

 

 

どれだけあなたはわがままとか、願望とかがあって権利を利用して無意識に自分に期待してるんですか?

 

 

 

 

 

では3です。

 

 

人間には3つの人格があるといわれています。

 

子供、大人、そして未成年です。

 

 

子供というのは上に述べたように単純なコインの考え方をする人格でした。

 

大人とはなんでしょうか。

 

 

大人とは単純な考えを放棄し、天上の人格を目指すことでした。

 

 

 

古の哲学者は今もこぞって考えています。

 

 

故人は去りましたが、私たちには未来を変えられる可能性があります。

 

 

コインというのはそもそも何でしょうか?

 

 

 

通貨は何かと何かを交換するためのもので、石器時代にもはや石のお金があったといわれています。

 

古の人々は考えました。

子どもから大人になるにはどうするのか。通貨=チケットだとして、どうしたら大人という人格を得られるんでしょうか。

 

 

エジプトのクレオパトラの黄金マスクで栄華を極めた金銀財宝の山を集めて埋葬しても、天上の人格を得られませんでした。

 

 

成人する前に私たちは、天上の使途となる大人の人格を学ぶ旅に出かけます。貧富の格差を遺伝子レベルで知っているせいでしょうか。

 

 

誰もが劣等感を持って生まれ、これを消すためだけに何度も生まれ変わっています。

 

 

そろそろ気づいてもいいころかもしれません。

 

 

だから精神的な大人になる成人式をしてあの世に迎えられるというのが、西欧的な考えです。仏教でいえば、同じく人智を超えて仏になるという言いかえ方をします。

 

日本の神仏習合は、仏が変身した姿が神だったりしているので、自然の神と天上の教えがうまく溶け合っています。

 

お経を読めば、うまくいくとか

断食すれば成仏するとか、そういう単純なことはあまり意味がない。

 

それはただやりたい人がやればいいことです。

 

なのでふつうは誰もが楽になるように祈ります。

 

私たちは未成年を見るように自己と対話していくだけです。

 

 

 

ある人は言います。

 

平均台から落ちたら死にますか?

 

想像してみてください。ひょいっと片足を地面に着けてあなたは気づくでしょう。

 

 

「なんだ、地面じゃん。」・・・笑

 

 

 

最後に、今回の話もそうですがこのブログのテーマでもある「童話」や「絵本」について触れたいと思います。

 

 

 

ここまで読んできてくれた方はわかるかと思いますが、小さい大人というのは絵本とか、童話とかに出てくる天上の使途の目線での大人のことです。

 

私は絵本が好きなんですが、

 

特に「はなさかじいさん」

 

「おむすびころりん」

 

「しょうじきの女神」(・・・だったかな)

 

この辺りです。

 

 

絵本って、常にいいお爺さんと悪いお爺さんが出てきます。和みますよね。

絵本がこうやって、良い悪いの二分法をとって善悪に分けているのは、わかりやすくするためですが、絵本自体は善でも悪でもないただの提示された哲学(どちらでもない存在)にすぎないと思ってます。

 

そして大体、人間じゃない存在がいて、良い人間にだけ富をもたらしてくれます。

 

 

ディズニーとか、ジブリのアニメもそういう意味で同じ教育かと思います。

 

 

大人が見る、大人のドラマは大いにかまいませんが

単純なストーリーを複雑にして盛り上げているだけです。

 

 

 

童話のような

うまみのある大人になりたいものです。

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

Youtubeもピアノコラボや、フラメンコギターなどの曲で色々と多国籍なルーツを思い出しながら練習しているので、よければ暇つぶしにどうぞ。