ミニマリストと分業について

 

4月です。いかがお過ごしでしょうか。

 

日本はまとまった雨が降り、暖かな風が吹き始めています。

 

大地が潤うと香り出すのは草花とか、虫とか鳥とか。春は桜を皮切りに、そこらじゅうで百花繚乱しているのがわかる季節です。

 

 

 

コロナ禍で、不要なものを売るとか、昔の考えに戻るとか、ミニマム(最小限。最低限)の幸福のハードルというのが、一般的になってきました。

 

小さい頃は、誰でもハードルが地面と同じくらいのところにあり、ささいなことを喜びました。

 

しかし今はハードルの、平均台の高さで物事を決めて人生を設計していく時代です。

 

自己宣伝で一体どこまでハードルを、平均台を上げればいいのか。

 

多分、スマホ時代の誰もが陰ではそう感じていると思います。

 

 

やはり価値観というのは流動的なものです。

 

かつてはイケイケドンドンで物質世界に対して、わたしたちの欲望は正しいものとされてきました。

 

しかし今はどこを見てもマスクマンで、物質世界で最も恐ろしい人の顔色などというのは、大して意味を成さなくなっているとしか思えません。

 

 

 

 

俯瞰していますが、この魂の時代に、足し算で出す答えから作る新たな価値というのはもはや形骸化しています。

 

 

 

むしろ、引き算の論理で真の価値を高めているのが「ミニマリスト」です。

 

 

 

最小限を導き出す数理は、もともと外国の文化ですが、日本にも鎖国時代には様々な思想が生まれています。

 

 

主な日本のミニマリスト文化は

 

 

禅の思考、茶道、武道、など道のつくもの、平安時代の和歌、日本誕生の神話、食文化、手芸編み物、建築、数え上げたらきりがないです。

 

 

iPhoneはジョブズが禅の思考から作ったものでしたが、バージョンアップするうちに画面は手のひらに収まらないサイズになり、重量も増えて、機能面で余計なものを入れすぎて、やはり脱線した気がします。

 

という意味では、禅の思考は世界を圧巻しましたが、日本人は別に自国の文化を誇る民族ではありませんでした。

 

 

自国の文化どうのこうのということがむしろ、もう足し算の数理につながるので、日本語の構造がもう引き算なのかもわかりません。

 

 

例えば、1を言って10を知るとか。

 

空気を読むとか。

 

 

絶対に日本以外では、ありえないことでしょうから、日本語を研究すればするほど謎そのものです。

 

 

 

まあ、すべての国と言語が違う、ということが唯一すごいことだと思います。全部同じだったら、とっくに人類は消滅しているかもしれないです。

 

 

違うから仕事が成り立つのであって、人というのは違うから例えば空腹の人と料理人がいるのであって、そこで商売ができるし、共有できるようになっているのでしょう。

 

 

そこで分業という、物々交換のルールができたから社会が出来た。

 

 

社会がまとまるには、ミニマリストも必要ですがマクシマミストのようなマッチョも必要なのかもしれません。

 

 

 

 

そういったところで今回はミニマリストと、マッチョじゃなかった、、分業についてのコラムでした。

 

 

ありがとうございました。