古典と国歌について

 

最近、梅雨の時期に外で歌うことが多いことに気づきました。

 

いくつかアップロードした動画の中でも、自然環境音が入っています。

 

ちょうど動植物が活気づいているのがわかります。

 

意図していないにもかかわらず、鳥や、風で揺れる木々などの音が入るので「偶発性」(Serendipity)の発見が楽しい季節です。

 

例えば、画家などは野外で写生します。

 

外でしか入りえないものを、キャンバスに写し取るためです。

 

 

私は画家ではありませんが

 

そんなことをして楽しんでいます。

 

 

 

 

 

さて

 

 

このブログのタイトルにもあるように、Stream(流水)のごとくいろいろの曲を流していました。

 

 

私はクラシック出身者なので古典を聞いて、これには敵わないな、自分ならどう表現したらいいのかな、と悩んだりします。

 

 

例えば、エルガーのバイオリンコンチェルトとか、ラフマニノフはもう次元が違いますし、印象派ならフォーレのピアノカルテットは全てが異次元です。

 

ロックにも古典が関係してるのは、よく知られています。

 

 

例えば、イギリス。

 

イギリスはもともとが産業文明の国ですので、人工的なアート、モノづくりが上手いいわば近代文明の父的存在でした。

 

 

気候で雨が多いというのも関係していると思いますが、ロックは短調を多く使うようです。マイナーコード。

 

なかでもプログレッシヴロックというジャンルは、古典を進化(プログレス)させたかのような環境音とか、めまぐるしい楽器による大騒音、そして空白の表現力がずば抜けています。

 

 

70年代のロック黄金期には、レッドツェッペリンをはじめ、クイーンなど多くのバンドが金字塔を残しました。

 

 

 

彼らはそもそも、古典をこよなく愛する若者たちでした。

レッドツェッペリンのギタリストで世界三大ギタリストのジミーペイジなどは、自ら古典愛好家を名乗っています。

 

 

クイーンのボーカル、フレディは自らの音楽のルーツをサウンドづくりに注ぎ込みました。オペラです。

 

 

 

古典というのは、何百年前に誰かが作曲した1つの表現です。

 

 

しかし、それを譜面に残しているという点で、後の世代の誰かの表現力を借りている、いわば1つの未完成品でもあります。

 

 

ということは、古典を演奏するときには、その人だけの古典になります。

 

例えば、ベートーベンの第九は有名ですが、本来の譜面は確かに素晴らしい。ですが、楽曲の出来、不出来は別として、100年後に演奏されたときに「本来意図していた演奏」と、「不本意に表現された演奏」というのが偶然一致することがあります。

 

 

それは演奏者によって変わるでしょうし、時代とか、人種によるものもあります。

 

例えばアメリカ国歌。

 

この前、バイデン氏就任式でレディーガガさんが歌いました。

 

 

あの歌唱力で、あの歌詞を歌われたら、初めて聞く人でも涙が出ると思いました。

 

 

以下はアメリカ国家の歌詞です。

 

 

The Star-Spangled Banner

星条旗よ永遠に

 

 

Oh, say can you see, by the dawn's early light

ほら、貴方にも見えるだろうか?

 

夜の闇に別れを告げる朝日に照らされて

 

 

What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming?

夕べ日没間近の薄明かり歓声の中で

 

手にした我らの誇り高き功績を

 

 

 

Whose broad stripes and bright stars,

 

 through the perilous fight.

 

幅広の横線と共に輝く星々は

 

その死線を越える戦いのまっただなかにいる

 

 

O'er the ramparts we watched 

 

were so gallantly streaming?

 

我々が守る城壁の上で

 

勇ましく己を誇示し続け

 

 

 

And the rockets' red glare,

the bombs bursting in air,

 

そしてロケット弾の赤い閃光と空気を震わせる

 

炸裂した爆弾までもが

 

 

Gave proof through the night that

our flag was still there,

 

我らの旗がここに健在であるということを

 

一晩中見せつけていた

 

 

 

Oh, say does that star-spangled

banner yet wave.

 

その輝く星々を讃え旗は今もたなびく

 

 

O'er the land of the free

and the home of the brave!

 

ここは自由の大地の上、

 

勇者たちの祖国であると示すように

 

 

 

 

 

 

もうなんというか、映像しか浮かばないですよね。

 

 

それも、勝ち目のない戦いの歌です。

 

 

 

戦争に限りません。平和な世の中です。

 

 

でもここでは、考え方によっては全てが戦場となります。

 

生きるということ、それは

 

すべて負け戦なのではないでしょうか。

 

よく勝ち目のない試合を盛り上げたくて、サムライとか形容しますが

 

この歌ではもっと魂で生きている感じですね。

 

生き残るということはいかなる善悪をも超えたものだといいます。

 

 

サムライとか、忍者とか、日本みたいに天皇制とか。

 

そんなぬるいことではないのがわかります。

 

 

 

ノブレスオブリージュというのが騎士道のテーマですから、白人社会では「位が上にあるほど、背負う義務は大きい」のでしょう。

 

 

世界一強い国、というコピーをプライドにして、今日もアメリカは国家を挙げて星条旗を掲げています。

 

こんな世の中です。

 

中国も攻めてきてますし、日本はテロの脅威にさらされています。

 

その抑止力がアメリカという存在ではないでしょうか。

 

 

アメリカには感謝するしかないです。

 

 

 

 

 

しかし、銃規制問題はアメリカにとっての運命です。

 

 

 

 

今年の銃乱射事件による死者は過去最高だといわれています。

 

 

最高というか、サイテーです。

 

 

国歌になっているのが、銃とかミサイルとかですから、穏やかじゃありません。逆に、何かを煽っているようにも、捉えられませんか?

 

 

 

そうです。

 

 

武力によって、武力を止めようとしているか、あるいは戦争によって富国強兵をしている。政治家による、マネーゲームです。

 

 

 

実際、iPhoneとかで使うGPSとか、色んな機能が「海軍」とか「空軍」とかが軍事開発したものを利用しています。

 

 

戦争による、一種の「イノベーション」が出来上がっています。

 

 

 

 

このやりきれない閉塞感みたいのが、アメリカの銃規制をさらに深刻化させている、と専門家は言います。

 

 

 

 

 

 

話は逸れましたが、なんともいえない曲が国歌になっています。

 

 

 

 

 

 

 

さて、21世紀です。

 

 

 

 

 

古典にいのちを吹き込むのと、料理は似ているといいます。

 

 

例えば、カレーを作るのには材料がいります。

 

なぜ材料のまま食べれないのか?

 

生で食べたら、おなかを壊すか、人格を壊すかもしれませんね。

 

 

(良い子は真似しないでね)

 

 

 

逆に、食べられる状態のものを、なぜ料理するのか?

 

 

それはやはり、食べて美味しいと思いたいからでしょうか。

 

 

美味しさの追求、とか。その他、理由があると思います。

 

 

 

 

ということは、材料は良くて、しかも料理したものはもっと良いということがわかります。

 

 

 

古典が材料ならば、現代で古典を演奏するのは料理。

 

 

 

料理が下手なら、せっかくの材料も台無し。

 

 

 

 

できれば美味しくみなさんにお届けしたい

 

 

 

 

そう思っています。

 

 

 

 

 

 

 

古典を発表する時期かもしれません。

 

 

 

 

ありがとうございました。