マンデラ効果と共時性について

 

壬寅。

 

はじめまして。

 

はじめましてじゃない人も、はじめまして。

 

 

一部の人はおかえりなさい。

 

 

一部の人というのは、注釈。

マンデラ効果が起きているパラレルワールドの住人)

 

 

 

 

さて

 

前にも取り上げた話題ですが、詳しく取り上げていきます。

 

数霊、カバラ、シンクロニシティ、サインというテーマがありました。

 

 

なぜかいつもよりゾロ目の数字をよく目にする、とか。

 

車のナンバーの数字がいつもよりゾロ目で怖い、とか。

 

なぜか時計が止まる、時計の数字がそろってしまう、とか。

 

電球が切れるとか、ネットがつながらないとか。

 

 

日常の中にある、こういった出来事がサインといいます。

 

そのサインを汲み取った後、次に起きることが連動していることがあります。

 

それをシンクロニシティ、とか共時性とかいいます。

 

 

これがボルテックスの構造で、次々に連鎖していくというのが「引き寄せの法則」とも言われています。

 

 

これを最近のスピリチュアルでは、良いもの、吉兆ととらえる傾向があります。

 

 

 

シンクロについての研究は海外では古くからおこなわれており、有名なのは人が同時刻、全く別の場所に同時に存在するという説です。

 

 

「あれ、君さっきここにいたよね?」

 

「え、いないよ。だってインドにいたもの。」

 

「!?じゃあ、あれは誰なの?」

 

 

 

これをパラレルワールドとか、平衡世界とよんでいます。

 

 

ピカチュウの尻尾は黒い。

 

日本は48都道府県だ。

 

昔は1ドル360円の頃があった。

 

マンデラは獄中で死んでいた。

 

 

 

これらは有名なマンデラ効果ですが、科学的には「記憶の美化」とか、記憶の書き換えが行われたからだといわれています。

 

 

この世にはまだまだ解明されていない領域が沢山あります。

 

 

 

なので、科学の届かないところはオカルトです。

 

マンデラ効果は、パラレルワールドの方の住人が「なんらかの手違いで」こちらの世界に影響を及ぼすからだ、といわれています。

 

 

全く別の場所に同時に存在する同じ人、これは有名なドッペルゲンガーですが、ドッペルゲンガーがキリスト教の話になると、同時に存在している同一人物というのは「幽霊」ではないということがいわれています。

 

 

さてなんなのか。

 

 

キリスト教は科学の生みの親ですので、幽霊というのは否定しています。

 

ですから、ドッペルゲンガーは聖書に初めに出てくる「イエスの復活」に象徴されるように、現代でも世界中のあちこちでこのドッペルゲンガーの現象が起きているそうです。

 

 

もちろん、幽体離脱は理論上ありませんから、肉体を持った存在が同時に全く別の場所に現れるということだそうです。

 

 

別名を、バイロケーション(Bilocation)といいます。

 

Biは二つの意味、Locationは場所を意味しますので、二つの場所に同時に存在するという意味になります。

 

 

 

もともとキリスト教の思想は、東洋の2元論に対して3元論をとります。

 

カオスから作った天の国、天の国とは別につくった宇宙、宇宙の中の地球という構成です。

 

 

 

なので、例えばイエスキリストという人を見たという人が起源0年にいたとして

 

その場合、天の国にいたイエスキリストが1人目。

 

地球に下界を旅しに来ているイエスキリストが2人目。

 

天国と、地球の二か所に同時に存在しているイエスキリストを、弟子とかが見ていたことになります。

 

 

時間軸を超えて、例えばAD700年頃にブッダが飛鳥の東大寺に降臨していても、これは彼らの脳内ではバイロケーションが起きているので、手塚治虫の「火の鳥」の筋書きはすべて正解ということになります。

 

 

詳しくは「火の鳥」(鳳凰編)を参照ください。

 最下段にYoutubeリンクを貼りました。

 

 

話を戻します。

 

キリスト教での論理を追うと、さらには、宇宙というのが本来、サタンを閉じ込めるための牢屋として作られている以上、サタンは宇宙と地球の二か所に同時に存在することができます。

 

これはちょうど、大きい風船に入った、小さい風船というイメージです。

 

 

その小さい風船のミクロの点、というのが国ですが、3元論を採用すると、天国と地球とをまたいで人が同時刻に全く別の場所に存在することができる、ということになり、地球のどこかと地球のどこかに同時に存在するということは、距離は違えど、やはり論理的には可能ということになります。

 

 

(クリスチャンの脳内では、少なくとも可能、なのか・・・そうか。)

 

 また、

 

東洋では、スピリチュアルな2極化という思想があります。

 

もとをたどれば2極化は、東洋の死生観です。老子のタオにあるような自然対人の思想でした。

 

サステイナブルに生きる人と、古い考え方の人が二極化する、みたいなことをYoutubeでたまにみかけます。

 

 

人か自然かというような議論を、2極化という言葉で発信しているスピリチュアルインフルエンサーの方々は沢山いらっしゃいます。

 

 

彼らの論理は知りませんが、言葉をうまく使い分けているような気がしました。

 

 

 

 

さて、2022年、二極化ではなく人はすべて平等に全く別の場所に同時に存在することができるのか。

 

 

先ほどキリスト教によるところのバイロケーションは、それを可能にしているとのべました。

 

 

そしてそれは3元論の上に成立しています。

 

 

バイロケーションは、その事象だけをみても検証できません。

 

 

キリスト教のこういった秘跡めいた謎の現象というのは、古くから世界各地で報告されています。

 

 

なんとかが降臨した、とか。

 

なんか変な言葉を急にしゃべった、とか。

 

なんか病気が治った、とか。

 

 

魔女という思想もそうかもしれません。

 

正統派のクリスチャンに対する、不信仰な人=魔女。とか。

 

男性優位な社会に対する、脅威がすべて魔女、とか。

 

 

悪霊が取り付く、というのもあります。

 

 

シンクロとか、サインとか、ゾロ目もそうですが、あまりにもこういった類のものに近づきすぎて、追い求めすぎている人というのを、聖書は否定しています。

 

というか、聖書以外のものを崇拝する人をサタンは好みます。

 

 

エクソシストにしても、突然憑依したものが何なのかはわかりません。

 

 

でも、確かに言えることは、神父がサタンを追い払ったということだけです。

 

 

ある絶対的社会の中では、あくまで不信仰な人が敵視されて、絶対者の下で働くエクソシストによって、改心させられるわけですが、洗脳というのがまさにこのからくりを使っています。

 

 

 

ホロスコープでも、この点に注目しています。

 

  星座や天体でいうと、魚座とかの犠牲心や、トランスサタニアンの天王星、海王星、冥王星は、救えない命さえも見捨てない姿勢が強い印象があります。そういう意味で、博愛といわれる魚座木星期は「全人類救済がテーマ」なのかもしれません。

 

 

 

 

洗脳というと、アストロロジーでは天王星と海王星がタッグを組む構図が真っ先に思い浮かびます。

 

 

奇をてらったエキセントリックな役者を、夢の世界の演出で虜にしていく、というのがこの天体間の座相になります。

 

 

 

 

誰かの都合によって、誰かの不都合を覆い隠してしまうような、そういう大人がサイコパスとしてこれからも情報のメディアの中で、断末魔を上げて洗脳を引き寄せています。

 

 

 

 

目に見えない世界というのは、絵空事でしょうか。

 

なになにをしなければ、どこどこへ行けないとなると、それは宗教以外の何物でもないですね。

 

そうやって宗教改革があったのが、現在のキリスト教の分断の結果です。

 

免罪符がないと地獄に落ちる、とか。

 

吉方に行くには、護符がないと死ぬとか。

 

商売儲けたいなら、祈祷するとか。

 

 

 

 その結果、たまたま気分が変わる、出費によって一時的な快楽を得られる。

 

でもそれは、客観的に見てすごく騙されている。

 

 

 

その商法の真偽などは、その人が決めればいいことかもしれませんが、藁にもすがる思いで、様々なアプローチを試した結果、医者には治せない、不治の病を治したいという意思が磨かれる。

 

 

 

そのとき、人知を超えたものや、不可抗力というアプローチで解決するかもしれない。

 

 

 

洗脳、というコピーをすべて否定すれば、洗脳で片付いて終わる。

 

 

でも、もし洗脳をすべて肯定した言葉に変換してみると、洗脳ほど強力で有力なセラピーはない、のではないだろか。

 

すくなくとも、潜在的な不幸とおもわれる運命の受諾者にとって。

 

 

 

見えないものからのパワーは、日々更新されています。

 

諦めてしまうにはまだ早すぎる、と、イエスは言います。

 

 

 

 

 

不治の病や潜在的な不幸がほんとうに運命的な導きなら、洗脳のない世の中に、色はあるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

以上で今回のコラムは終了です。

 

 

良き一年を。