タロットと無我について

2月は早いもので、来週には世間では卒業式シーズンになります。

 

 

今回は、特に何のテーマというわけではなく、前にポエム的に描いたものをのせていこうと思いました。

 

理由は、文章とかでは感情や心がストレートに届かないと思うからです。

 

それを通して自身の創作につなげるとか、つなげなくても何かを感じて頂ければ、と思います。

 

 

 

そう思うに至ったのは、いたって単純な動機です。

 

 

というのは、久々になんかタロットを引いてみたところその結果がそうだったからというだけなのですが。

 

 

 

 

 

 

では去年の分です。

 

 

 

 

「おかえり」

 

人には運命的な不幸とか、運命的な苦しみが一個はあります。

絶対あります。

 

人は運命を変える努力を、美しいと思いたがります。

 

人は逆境に反抗していました。

 

だから私は運命に逆らうのが美しさだと思っていました。

 

でも運命的なのだから、反抗するのはおかしいな、と最近私は思いました。

 

 

 

気づきました。

 

 

 

なんかおかしいな、論理的にまず運命的な不幸とか苦しみを認めた上にある反抗心というのは、はじめから負けを認めているのと同じことになるのではないか。

 

地面に墓穴を掘り、足場となる橋に火をつけ、土台に泥沼を想像してるのだから、いくらその上に城を築いても、固めてもさ、装ってもさ運命的な不幸とか苦しみの上書きにしかならないよ。

 

 

いつか初めて持つことにした拾ったライターが、とても不潔なものに思えました。

 

 

捨てました。

 

 

運命的な不幸や苦しみは、本当は財産としての才能なのではないか。 それに気付いて人は与えられている才能を、まず使おうとするのが運命の認知。

 

 

そこから論理的に展開していくのが、63億分の1の人生の物語として自然。

 

 

はじめましてじゃなくて、おかえり。

 

 

与えられた青春をずいぶん棒に振りましたが、人生は下りの残り半分くらいあります。

 

 

残りの人生は、負の財産がありますから、なるべくなら美しいものだけを選んでも、バチは当たらないでしょう。

 

そんなことを考えていました。

 

昔よりマシになりました。

 

昔より半端もんです。

 

ほんと、最近の事です。

 

 

ありがとうございました。

 

この文章は去年のある日ポンと出たものなんですが

 

無我についてのポエムだったのではないかと、後になって気づきました。

 

人は沢山持とうとしますよね。

 

遠くにあって、持ってないものを持とうとして、頑張っています。

 

 

それはなぜなのか。

 

 

近くにあって、もう持ってるものを数えないからでしょうか。

 

 

そう考えたときに、今持ってるものとの距離感とか、トイストーリー的なパートナーシップに対する無限の感情が湧いてきます

 

 

本当に、それに気づけばミニマリストです。

 

 

集めることができるのだから、減らせることもできます。

 

 

まだ使うからとか、いつか使うからとか、それをやめることで「もっともっと」から、「運命の絆」みたいな心の在りかを得ることができます。

 

 

 

有名になるとか、あれを諦めないで、とか世の中にはそういう誘惑のささやきが下水のように私たちの足元の下を、脈々と流れています。

 

 

それをタロットカードで見た「17.星のカード」の川だと私は解釈しています。

 

 

ライトウェイト版では水瓶を持った人が、その川に水を戻しているように見えます

 

 

 

それが、借りたものを返すという基本的な思想なのだと思います。

 

 

17の星のカードは、タロットでいうところの最後のシーンです。

 

最後といっても、周期がまたありますので、そのサイクルのそのシーズンの最後の仕事です。

 

 

今は2月で、一般的には決算もありますので、この星のカードは季節的にも今くらいに当てはめられます。

 

 

 

今までかなり多くの人々は、星のカードはこう、というような固定観念で縛ってきたように見えます。

 

でも、星のカード自体が解放されるのが、この「無我の思想」によって成されていきます。

 

 

そもそもタロットの生まれた西欧には「無我の境地」とか、そんなものはありません。

 

 

日本的に解釈すると、それは畑違いだとか趣旨が違うといわれそうですが、その辺を柔軟に考えて翻訳するのが本来のタロットではないかとも思います。

 

 

欧米人は生まれたときに人権をもって生まれますが、日本人はあとから人権を覚えます。

 

人権がそもそも輸入品ですから、フェアではないですよね。

 

 

そもそも平等というのは状態ではなくて、希望とか願望の一種だといわれています。

 

 

願望とかがあるから、私たちは頑張って前に進めるのだ、ということを大幅に全否定したところにある光のようなものもあると思います。

 

 

 

別に私は、努力論を否定しているわけではないのですが

 

 

今という結果で悩んでいるよりも、今という結果の因果は、見えない絶対的な何か宇宙の存在による意図なのではないかなと思うからです。

 

 

 

今負けていても、明日には勝ってる、とか。

 

 

逆に、今笑っている人は、明日には泣いている、とか。

 

 

 

神さまというか、大きな存在の愛のムチというのもあって、人間の尺度では、いかなる悪もとうてい計り知れないのがこの世界なので、努力したから評価されるとか、そういう計算づくの考え方はあまり意味がないのかもしれません。

 

 

どうしてもタロットが聖書的な読み方になってしまいますが、

 

 

そういうひねくれたことを考えていました。

 

 

そのために、星のカードを引用しています。

 

 

 

では次回に続きます。