シルバーバーチの霊訓を読んでいると、良いニュアンスの霊訓が多いです。
以下、転載。
「インスピレーションを受け取れるかどうかは、波長が合うかどうかの問題になります。
芸術のあらゆる世界、音楽や絵画などの世界で先駆者が存在することを思い出してください。
時々彼らは、その時代の人々が理解できないほど、先を行っていることがあります。
しかし、何年か後には理解が追いつき、その先駆者が評価されるようになります。
それは地上でよくある音楽の俗悪化には当てはまりません。
これは暴力と同じで、今日、地上で横行しているものです。」
ー ユングは“内部で起きているものは全て、外部に現れなければならない”と言っています。
最近の暴力的で調子外れの音楽は、これを証明しているのでしょうか?
内部にあるものは、外部に出した方がいいのでしょうか?
それによって暴力的な感情を発散しているのでしょうか?
「いいえ、残念なことにそれは自然な反応です。
それは物欲の表現であり、利己主義の一部であり、他人への完全なる無関心の表れです。
貪欲が作用しているのです。
それが地上を悩ます暴力の原因です。
暴力は態度や行動だけでなく、音楽や芸術、あらゆる形であらわれているのです。」
以上が転載です。
シルバーバーチはホワイトユニティの中でも最も言葉を使う霊だといわれています。
その姿はネイティブインディアンの形をしている、といわれていますが直訳すれば「シラカバ」となります。
あのキシリトールが摂れることで知られる白樺です。
厳しい寒さにも耐え、高山で真っ白い樹皮のまま朽ちていく、あの立ち姿がバーチの名の由来でしょうか。
巷では、様々な表現方法を駆使して、スピリチュアルについて多くを語る風潮があります。
特に日本では、カタカナで説明することで内容に神秘性を持たせている表現者も多いです。
それは表現の自由なのですが、いざカタカナを使わないで説明して下さいとなると、日本語の場合びっくりするくらい表現が陳腐になります。
漢字の起源は象形文字にあるといわれていますが、それはつまり物質主義の極みともいえます。
漢字ではスピリチュアルを説明できない。だからカタカナを使う。
そのくらい、日本語はカタカナに頼っているのかもしれません。
私は古い人間なので、「粋」とか「凛」のような漢字一文字の世界観を推奨します。
南無阿弥陀仏
三世諸仏
しかし、漢字で表現された感情は、やはりどこかで物欲と結びついている気がしました。
物欲をよく吟味してみると、人格にたどり着きます。
たとえば
お釈迦様の位になると、全ての装飾は取り除かれ、ほぼ裸です。
これは、悟りが完成しているからだと説いています。
しかし、その下の位の菩薩、如来、明王といった仏様は豪華絢爛なアクセサリーをジャラジャラと金ぴかに身に着けています。
これは、悟るまでは物欲について吟味しろという事を意味しています。
古代バラモン教の教えや、キリスト教でもそうですが
現世はすべて借り物である、という哲学がベースになっています。
生まれてくるのと同時に、絶対的な存在から無条件に「借り」を作っているので、私たちは死ぬまでこの「返せない借り」を返し続けなければならない。というのがテーマだそうです。
注目すべきなのは、全て人類がいわれのない借りを強いられている、ということです。哲学家のニーチェはそれを取り上げて、宗教批判をして大炎上しています。
キリスト教では、イエスが犠牲になってこの借りを返したという事になっている訳ですが、じゃあ今度はイエスに借りを作っているじゃないか?ということです。
みなさんはわけもなく、知らない誰か、会ったこともない人に強制的に何かを借りれるでしょうか?
無条件の愛、というのも相手を無視した結果、一方的に与え続けているという意味では「暴力」といえます。
私たちが何か不足して、物を欲しいと思った時に毎回発生しているのは、こういった哲学であり、ジレンマでもあります。
じゃあ、何で人はメディアの一方的な放送や、商取引をやめないのか?
何で人は無償の愛を善だと言い切れるのか?
何で人は基本的に善的存在だと言い切れるのか?
という多面体の相対的な疑問が残ります。
鳥が先か、卵が先か
肉体が先か、精神が先か、という類のやつです。
これはメディア論でもあります。
あるいはメディアがその暴力のメタファーとしての役割を担っていることに、わたしたちもそろそろ気づけよということなのかもしれません。
一方的に流れてくるセミの合唱も、暴力かどうか。
禅問答
ボジソワカ
水星逆行の8月下旬、こういった天体からの影響を見直してみるのも一つのカギになりそうです。
ありがとうございました。
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